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2006.05.31

日常ドットコム

 五月も今日で終わり。そこで最近の日常、おもにハマっているものなど。

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ポッカの『キレートレモン』をほぼ毎日飲んでいる。急に初夏っぽくなってきたせいか体がついていかず、酸っぱいものと麺類ばかり食べている。これは、他のレモン系飲料より酸っぱく甘くないのでお気に入り。

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大好きな映画、『デカローグ』の解説本を手に入れた!これを読んでクシシュトフ映画を研究しよう。

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洗い流さないタイプのトリートメント。髪がすごく痛んでいたので、先週、長かった髪をバッサリ切ってショートボブにした。今度は痛まない髪をつくる!と鼻息荒くしていた私に、美容師さんがこれを勧めてくれた。ドライヤーをかけるのもかわいそうだったマイ・ヘアーが、これをつけると喜び組~。

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細野晴臣の『HOSONO HOUSE』。最近のヘビーローテーション。細野師匠の素晴らしい楽曲は今聴いても新鮮で、とても30年前だなんて信じられない。『恋は桃色』はたくさんの人にカバーされている名曲。自分で持ってるだけでも、はっぴいえんど、サニーデイ、中村一義、そしてこの細野さんと、そうそうたる顔ぶれが気持ちよく歌っている。
♪ここがどこなのか どうでもいいことさ どうやってきたのか 忘れられるかな♪
日常への馴染めなさや違和感や場違いな感じは、どんな風に生きていても常に付きまとうものなんじゃないかと思う。

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新潮文庫のYonda?CLUBのグッズ。100%オレンジのイラストがかわいいのでいつもマグカップを応募してしまう。今日届いたのが右端のです。かわいい!でも使う機会がないのよね~、でも応募しちゃうのよね~。

 そんな日常。そして今、高校のときに超仲良しだった友達が結婚するというニュースが飛び込んできました!私の仲良くしている友達では初めての結婚で、友達の結婚式にでるのももちろん初めて。チホちゃん、おめでとう!!かわいい花嫁さんなんだろうなぁ。
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Posted at 00:40 | Anything | COM(3) | TB(0) |
2006.05.22

あるお好み焼きやのことなど

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 ダ・ヴィンチ・コードを読んだあとは、自分がとても頭がよくなったような気がするが、それは一瞬にして忘却の彼方へと消え失せ、読み終わって一ヶ月もすると、本の中で何が起こったかはすべて霧の中なのでした。

 よしもとさんの『ひな菊の人生』を読む。小田急線の小さな駅で電車に乗り、読み始め、新宿について降りるまでの間にピッタリと読み終えた。途中、成城学園前あたりでうるっときてしまい、周りの人たちにはとんだ変態に見えたことだろう。

 話の中に、お好み焼きやが出てくる。ひな菊が働いているお店で、ランチタイムには大量の焼きそばを焼く。もう一生焼きそばを食べたくない、と思うくらいに毎日焼きそばを焼き続ける。ランチが終わった後から夜の営業が始まるまで、体がくたくたになり、気だるい午後3時を魂が死んだようにひっそりと過ごすのだが、また夕方が訪れ夜が近づいて来ると、魂が戻ってきて、鉄板の前に立ちわくわくする。濃密な夜。ひな菊は、この仕事こそ自分の天職だと思っている。

 この話を読んでいて、広島のあるお好み焼きやさんを思い出した。

 どうせならおいしい広島風お好み焼きを食べるぜ!と意気込み、目当ての店を求めて夜の繁華街をウロウロした。そのお好み焼きやさんは、新宿歌舞伎町みたいな所にあって、たどり着くまでに、随分たくさんの黒光りしたメルセデスや、ぎらぎらに着飾った女たちや呼び込みのコワイ人、やーさんなど夜のメンツとすれ違った。
 ようやくたどり着くと、想像以上に小さなお店で、看板娘(?)のおばあちゃんと弟子のお兄さんが働いていた。ビールを飲みながら、目の前でおばあちゃんが鮮やかに何重にも色々な具を重ねて焼いていくのを、おおー!と言いながら見ていた。
 そのうち、地元の常連さんがやってきた。見た目から明らかにやーさんとその女なのだが、「おいしい、おいしい」と言って食べている私たちに、「おねーちゃん、東京から来たの?」と聞き、そうですと答えると、すごい笑顔で「うまいやろ?ここのお好み焼き。いい店選んだねー、この店来て正解だよ!ばーちゃんはお好み焼き焼くの日本一やから!」と言った。おばあちゃんもキラキラした笑顔で、「当たり前や、そんなん!」と言い、相変わらず鮮やかにお好み焼きを焼いていた。
 その後も、そのおばあちゃんが吉本新喜劇に出た話とか若い人と話すのが大好きという話、店をお客さんが好意で(ただで)直してくれたという話などをたくさん聞き、お腹が一杯な上にあったかい気持ちになって店を出た。

 あのおばあちゃんの、お好み焼き一筋の姿勢や自信、目に宿るキラキラした光や、鮮やかな手つき、その手のしわ、お客さんに対する態度、すべてが完璧だった。お好み焼きとおばあちゃんの人生は切り離せないほどピッタリと寄り添っていて、苦労や喜びや愛情がある。お好み焼きを食べるだけでこんなに人を幸せに出来る人は、そうはいない。おばあちゃんは正真正銘の職人で、しかもそれは天職だったのだろうな、と思った。
 その店のテレビでは細木和子の壮絶人生、というのをやっていて、なぜかそれを店のみんなで見ながら、「この人も随分苦労したんだねぇ」と話し、うんうんと頷きあった。細木和子!
 初めて行った店で、お好み焼きを食べながら、地元の人たちと細木和子の人生のつらさに共感したなんて、ちょっと笑える、すてきな思い出だ。

 私も、職人になりたい。あのおばあちゃんのように、あの歳になっても、目を輝かせて、手にしわをつくって、仕事をする。自分が日本一!と胸を張って言い、小さな店でも風俗街でも、そこにちゃんと確固とした自分がいる。スポットライトなんかなくても、自分の目に宿る光や胸の内に燃える炎で自分を明るく輝かせることが出来るような、そんな職人になりたい。

Posted at 03:06 | Books and Comics | COM(3) | TB(0) |
2006.05.16

原爆ドームのことなど

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 朝日新聞で、「東京裁判を知らない人が7割、20代では9割」という記事を読み、驚いた。靖国参拝とか竹島問題とか普天間基地とか、あんなに騒いでいるのに、戦争の足跡とはいかに消えやすいものか、ということをひしひしと感じた。

 二年前の夏、広島に行った。青春18切符で行った貧乏旅行で、最終目的地を広島にした。
 その夏の初めに、私は『父と暮らせば』という映画を見た。戦争が終わった後の広島にすむある女性の再生の物語だ。死んだ人と生き残った人。戦争の悲惨さや傷跡。原爆を落とされ、地獄を味わった後でも、生き残った人たちは、生きていかなくてはならない。その背負うものは大きくて重い。
 「お前は死んだわしによって生かされとるんじゃ。お前に、あんなひどいむごい別れが何万もあったってことを覚えといてもらうために、お前は死んだ人たちに生かされとるんじゃ。人間の楽しかったこと、悲しかったことを伝えるのが生きてるもんの仕事じゃ。それがわからんのなら、お前はもうええ、他のもんをだせえ。お前の孫を、ひ孫を生んで伝えてくんしゃい。」

 ラストシーンで、キャメラが、それまで場面が展開していた部屋から、天井を写すように上に移動する。すると、見る見るうちに天井は高く、高くなり、ぼろぼろのあばら骨の天井が見え、その隙間から空がのぞく。そう、それは、原爆ドームの中からドームの天井を見上げた画だったのだ。今までスクリーンの中で展開されていたすべてのシーンは、物語は、映画は、すべてあの原爆ドームの中で起こったことなのだ。
 そのラストシーンに原爆ドームの天井を写したのは、もちろん原爆ドームが原爆の、そして戦争の象徴だからだ。その意味では、上に書いた台詞は、あらゆる空の下で本当に何万と繰り返された真実の言葉なのだろう。あらゆる空の下に、上のような別れがあり、生き残った人たちは必死で心の中で死んだ人たちと対話をし、何とか使命を見出して後世に戦争を伝えたのだろう。原爆の後、雷にも写真のフラッシュにも恐怖を感じるにも拘らず、思い出したくないあの出来事を今でも伝える人たちがいる。
 今まで見た映画の中で一番印象的なラストシーンだった。

 そういう訳で、広島に行って原爆ドームと資料館をこの目で見なくては!と思い、夏の長旅の最終目的地が広島になったのだった。

 原爆ドームなんて何回も教科書やテレビで見ている。
 でも、実際に原爆ドームの前に立った時、自分でも信じられないくらいのショックを感じた。目の前にあるのは、圧倒的で徹底的に無差別な殺戮の残骸だった。そこは、世界の果てのような気がした。草が生い茂り、芝生には手が行き届いていて、夏の眩しい光の中、公園からは笑い声さえ聞こえたのに。そのショックは、人の死に立ち会うことに少し似ていた。60年も昔のことなのに、そこにある殺戮の残り火は少しも色褪せていなかった。ジリジリと私の肌に突き刺さる太陽の光が、原爆の威力は「頭のすぐ上に太陽がペカーッ、ペカーッと二つ並んだのと同じ」という映画の台詞を思い出させて、うすら寒いくらいだった。ショックでしばらく口も聞けずに、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 あの頭をガツンと殴られたような衝撃はちょっと忘れがたい。今日は真面目なアヤココさん。
 次回へ続く…かもしれない。

Posted at 08:03 | Anything | COM(3) | TB(0) |
2006.05.15

彼女のタペストリー

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 NHKのTRの再放送に、向井秀徳が出ていたので見る。ナンバーガールは結構好きだったが、解散した後は行方知レズだった。なんせZAZENBOYSと銀杏ボーイズの区別がつかなかったくらいだ。一度下北の飲み屋で向井氏をチラと見かけたが、普通のオッサンだった。でも今こうしてライブを見ると、相変わらず向井オーラというか、むしろ向井臭ともいうべきものを発していて、またファンになりそうだ。ワクワク。

 東京のハトが物凄く黒いので、「東京のハトはカラスと交尾しているに違いない!」と言ったら、「それはない。」と私の生物学的見解は即座に一刀両断され、「単に排気ガスで汚れてるだけだ。」と諭された。でも一応言っておくと、東京のハトの黒さは半端じゃないよ。
 そして今日!!長年の私の主張を裏付けてもらうべく、遺伝学を勉強している妹に頼み、教授に真実を聞いてきてもらった。するとやはり、「それはありません。」と、ちょっと笑われながら言われたらしい。その後の教授のちゃんとした説明を、妹が私にもしてくれたが、私にとっては「それはない。」が頭の中でエコーしていて、よく覚えていない。

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 キリンラガーのCMに、サディスティック・ミカ・バンドが出ているのを見て色めき立つ。ボーカルはカエラちゃんだが、よく見るとちゃんと幸広さんとかがいる!!『黒船』を愛聴していた私は、このCMを見ると気持ち悪いほど熱唱する。そして副作用、というかCMの実利的効果により、必然的にビールが飲みたくなるが、禁酒をしているので「うう。」とうめき声を上げて自制する。テレビに合わせて歌うところからビールを欲するところまで、オヤジそのものだ…!タイムマシンに~おねがい~♪してあの頃に戻りたい。

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 今日、家の近くのごくごく庶民的なスーパーに行ったら、BGMにフィッシュマンズがかかっていたので、手に取った卵を思わず落としそうになった。フィッシュマンズは大好きだが、とてつもなく似合わない場所でかけられては、ファンもさとちゃんも大迷惑だろう。買い物に来ているオバサマたちも、「え、何かしらこの幽霊みたいな声。」という感じで評判は決して良くないと思う。それなのに…。どのような過程を経てBGMにフィッシュマンズが選ばれたのか、知りたいようでとても知りたくない。ちなみにこのスーパーは、去年の衆議院選挙で、俗に棚ボタ当選と言われた某センセイが経営なさっているスーパーです。まぁ、どうでもいいんですけど。

Posted at 00:42 | Music | COM(2) | TB(0) |
2006.05.13

猫から始まるエトセトラ

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 上の写真は前回話したデブ猫。カワイイ。
 仲間由紀恵のauのCMを見るたびに、「あたしも恋のダウンロードがしたいワ…」と思ってしまう不毛さ。スピッツが『運命の人』で、「愛はコンビニでも買えるけれど」と歌ったのは1997年のこと。あれから10年弱。もうコンビニよりもダウンロードの時代で、それは愛や恋についてもご同様。これを進化というか退化というかは、人それぞれのニーズなのだろうが、それを「ホンモノ」と言い切ることは、かなり寂しい、というか病んでいる、と思う。

『「考えてるほど悪いことにはなるまいよ。」
彼は僕を力づけた。
「人間というのは素晴らしいもんだ-どんなことでも折り合って暮らしていけるようになる。」
父さんは僕に言った。
「我々が何かを失ってもそこから立ち直って強くなれないんだったら、そしてまた、なくて淋しく思っているものや、欲しいけれど手に入れるのは不可能なものがあっても、めげずに強くなれないんだったら」父さんは言う、「だったら、我々はお世辞にも強くなったとは言えないんじゃあるまいかね。それ以外に我々人間を強くするものがあるかね?」
ザッハー・バーにいたものは一人残らず、僕が泣き、父さんが慰めるのを見守っていた。それがまさしく、僕の考えでは、そこが世界で最も美しいバーである理由のひとつだった。誰に対しても、どのような不幸でも、そのことで引け目を感じさせない雅量がそこにはある。』
(J・アーヴィング著 中野圭二訳 『ホテル・ニューハンプシャー』 新潮文庫)

 以前、宮がこのブログの『スライ・アンド・ザ・レインボー』のコメントに、「涙は苦しむことに直面する勇気を持っていることの証」という言葉を書いてくれた。
 この言葉の意味するところの真理を、たくさんの人が形や言葉を変えて語っているが、良い言葉だと思う。でも、この意味を本当に自分の全身で、譲歩なしに理解することができるのは、その「苦しむことに直面」した人だけだろう。その人たちにとっては、それは紛れもない人生の美しい真実であり、生きる上で強固な盾となる強さなのだろう。しかし、一方の人たちにとっては、「そうであってほしい」という切実な祈りであり、いつかは手にしたい盾であるか、あるいは陳腐な理想主義に過ぎないのかもしれない。私はどうだろう、と問いかけてみても、まだまだだなぁと思う。本当はちゃんと分かりたいのだ、私だって。
 もしこの言葉がちゃんと分かるように成長できれば、人生にただサヴァイブする以上の意味を見出すことができるかもしれない。つらい時だって今よりもう少し自分に、周りに、優しくなれるかもしれない。それこそ陳腐な理想主義かもしれないけれど。

 初めに引用したJ・アーヴィングの言葉。私がこの世で一番好きな文だ。宮の書いた言葉と同じ意味がここにも在る。
 とにもかくにも言いたい事はそれだけ。また著作権を侵してる…。許して、オー・マイ・ダーリン。

Posted at 00:32 | Books and Comics | COM(5) | TB(0) |
2006.05.09

サニーデイ・サービス

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 最近、家の近くに大きなブサイク猫が棲みついている。人懐っこく、こちらが「ミャーミャー」というと、「ミャー」と返してくる。尻尾が半分で色も汚く、デブチンでブサイクなのだが、その分とてもかわいい。

 さて、サニーデイ・サービスをよく聴く。大好きだったが、高3の時に解散してしまった。妹も友人も大ファンだったので、みんなでしょげたものだ。

 サニーデイのラブソングが特に好きだ。
 その詩からは、恋人達が幸せなのかそうでないのか、未来はどうなるのかが全然分からない。聴く時の気持ちによって詩のストーリーが変わる。でも、まあ、恋ってそんなものだ。それをとてもリアルに、移り行く風景みたいにかいてあって、なぜかノスタルジーを感じてしまうのだ。
 『恋に落ちたら』でも、「昼にはきっときみと恋に落ちるはず 夜になるとふたりは別れるんだから」という歌詞があり、これはもう恋そのものだなぁと思い、きゅんとしたものだった。

 いつだったか、ロックフェスに曽我部さんが出た時の話。
 夕方だったけれど、それまではピーカンだった空が曇り始め、だからといって雨が降るわけでもなく、涼しい風が吹いてきて、霧が出始めた。 サニーデイが解散してから初めてのライブだったので、私はすごくワクワクしていた。
 ロックフェスは、普通、とても盛り上がるもので、前の方ではモッシュなんかが物凄く、倒れてしまうくらいに夏とロックだけになるイベントなのだが、曽我部さんの時だけは違った。みんな凄くしんとした真剣な表情で待っていて、まるでみんなの祈りが霧となって会場を満たしたみたいだった。一人で現れた曽我部さんを見て、歌う彼を見て、誰も騒がなかった。誰もが同じ気持ちだったと思う。ライブのポーズなんて今はいらないのだと。静かにただ、耳を傾けようと。

 静寂を破るものは彼の声とギターだけだった。みんな体も揺らさずにじっと聴き入って、彼の歌を、声を、ギターを、ごくごくと水を飲むように体に吸収しているみたいだった。霧の中、響く彼の声に、周りの草も木も湖も、神様さえも囁きを止めて聴き入っているようだった。
 そんな幻想的な空気の中で、最後に歌った『サマー・ソルジャー』。暑い暑い夏の真ん中で、私は青春真っ只中だったが、悩みも多く、音楽だけが救いだった。そんな中聴いた『サマー・ソルジャー』は、いつもの100万倍の振動をもって私に響いてきて、泣き出してしまいそうだった。暑くて、でも指先は冷たくなるほど緊張していた。瞬きする間も惜しいくらい、全ての風景を目に焼き付けようとした。

 今でも、『サマー・ソルジャー』を聴くと、あの夏の夕方の、霧にかすんだステージを思い出す。私の夏は、暑さでアタマがやられて、蜃気楼の中にいるみたいになり、目に強烈な色彩を残して去っていくものだが、この曲も同じような中毒性を持った曲だ。強烈な夏の残像が、今でも私をフラッシュバックさせる。

 「八月の小さな冗談と 真夏の重い病
  天気のせい それは暑さのせい それから先は…」

Posted at 17:11 | Music | COM(3) | TB(0) |
2006.05.04

朗読のもつ力のことなど

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 夜寝る前に、ラジオの朗読番組を録音したMDをよく聞く。J-waveで昔やっていた番組で、好きな作品や朗読者だと、こまめに録音していた。ラジオドラマはどうも好きになれないが、朗読はわりと好きだ。人が朗読するのを聞くのも好きだし、自分で朗読するのも好きだ。

 小説と、その小説を映画化したものがまるで違うように、同じ作品を黙読するのと朗読するのとでは全く違う。一度も読んだことのないような話に聞こえる時もあるし、まるで違う話のように感じるときもある。
 ゆっくりと一文を辿るからかもしれないし、声の抑揚や間が作品を別個のものに成らしめるのかもしれない。でも、それだけじゃないと思う。なんというか、朗読すると、まるでその語る声が、読み上げられる言葉が、紙の上よりも密度の濃いギュッと凝縮された小宇宙のようなものを作り出すのだ。声が空間を支配していく。文が声によってつづられた瞬間、その文にシュッと魔法がかけられたみたいに、力を持ちはじめるのだ。
 自分でも、たまに気に入った部分を声に出して読み上げる。すると、やっぱり文が力を持つのが分かる。今、自分の言葉になっていく。体に言葉が刻まれていくように感じるのだ。良い文だ、と思う。

 居候していた時、子供たちが寝る前によく本を読んであげた。「ドリトル先生」とか「ライオンと魔女」とか「機関車トーマス」とかだ。並べられた子供たちの布団の隙間に入って読んでいると、うんと大人になって、お母さんになったようでもあり、限りなく子どもに戻ったようにも感じた。なんだかじんとして感慨深い夜だった。

 余談だが、寝る前に落語もよく聞く。ある噺家さんが「眠れない夜には落語を聞くといい。つまらなくてすぐ眠れる。」と言っていたが、まぁ真意の程は置いておいて、ぷぷぷ、と笑いながら眠りにつくのは良いことだ。好きな噺は、提灯屋、短命、寄合酒、代書屋などなど。面白いですよ。

Posted at 19:45 | Books and Comics | COM(4) | TB(0) |
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