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2006.07.26

最近のことなど(和み系)

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 祝、夏休み!!ビバ、山田バーバラ!(←後者は関係なし。ゴロがよかったんでつい。)

 大学の近くにあるお好み焼き屋『わいわい』を、ずっと『わんわん』だと思っていた。看板の字を読み間違えていたわけだ。バカ…。『わんわん』じゃ人来ないだろう、と思っていたが、むしろ私に人が寄ってこないだろう。少しの違いで大違い、『わいわい』だったら俄然行く気がしますよね。

 大好きな『みつこ絵日記』が、本格的に再開されたので、毎日毎日楽しみにしている。みつこちゃんの絵は、モノに顔がついていて、それが話しかけてきたり、肩透かしを喰らわせたりする。動物が変な格好をしていたり、あくびや、やる気のない空気がもわわーんと存在していたりする。とってもかわいいし、和む癒しのひとコマなんだけれど、実は結構シュールな絵日記かもしれない。

 行きつけの、うちの前の花屋さんで、「とっても育てやすいグリーンです!」と思いっきり宣言してくれているグリーンがあったので、購入。
 実は二週間ほど前に買ったアジアンタムが瀕死の状態。友人のはるこは、「アジアンタムは難しい!私は半年しかもたなかった。」と言っていたけれど、はるちゃんの記録を大きく塗り替える結果となりそうだ。
 するとそのタムちゃんを猛追するように、一週間ほどで、その「とっても育てやすいグリーンです!」だったはずのグリーンが、みるみる瀕死状態に(上の写真)。
 「これは、才能がないのか、いやいや、グリーンを育てるのに才能なんているもんか、大事なのは愛情だ、サボテンにだって話しかけろというじゃないか。」などと悶々し、結局は自分を、「雨続きだから、きっとお日様が恋しくて枯れ始めちゃったのね。」と無理矢理に納得させた。
 しかし、これでは私に買われたグリーンが可愛そうだ。そこで、その病人たちを、色々な角度から写メって花屋さんに行き、「一週間ほどでこんなになってしまいました!」と報告すると、「これは…水をあげなさすぎですね。」と一言。なんとも基本的なところでつまずいていました。
 たっぷりと水をやり、生き返るのを待つのみ。今日は天気もよかったし、梅雨の終わりとともに、鮮やかな緑を咲かせて欲しいです。

 一方でのん気というか、繊細ではないというか…すくすくと育つパキラ。
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Posted at 20:33 | Anything | COM(2) | TB(0) |
2006.07.23

インテリア

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 物欲をバーチャルに満たすために、SPURの8月号を買う。もうすっかり秋物で、コート&ブーツの特集なんてやっているのだが、この非現実さが私を買い物に向かわせない抑止効果となっている。

 そのなかに、ウディ・アレン特集があった。

 「みんな、灰色にどんより曇った空の美しさを知らなすぎるんだよ。曇った天気は美しいし、映画を撮るにも向いている。僕は、朝起きて、太陽がさんさんと照ってまぶしい光が入ってくると、それだけで『欲望という名の電車』のヒロイン、ブランチ・デュボワが登場してくるような、場違いで落ち着かない気分になる。でもそれが灰色の空だと、とても雰囲気があって、NYもパリもロンドンも、どこでも町並みを美しく見せてくれる。灰色はとてもラブリーな色だ。だから僕は大好きなのさ。」

 昔、友達が「ウディ・アレンの映画は、ちょっとスノッブな感じがして好きじゃない」と言っていて、まぁ確かにそうかもな、とも思った。
 彼は、大抵の映画では、かなりスノッブなものを題材として扱っているし、皮肉や侮蔑をこめて、それらのものをよりスノッブに描いている。俗物を、ユーモアをこめて露骨に、そしていやらしいくらいに洗練された形で描く。ルーティンする恋愛ゲーム、役に立たないカウンセリングと精神科医、神経症的ニューヨーカー、カラッポなハリウッド、セレブリティとスキャンダル、しがみつく強欲とあっというまの転落、象徴的なバナナ。
 でも、スノッブな題材を扱うということと、それをスノッブに撮るということと、できあがった映画自体がスノッブなものであるということは、かなり違う。アレンは、最後のところではコケてないと思う。
 もっとも、『カイロの紫のバラ』では、「僕の映画を芸術や研究材料のように語らないで。ただ楽しんでくれればそれでいい。映画はエンターテイメントなんだから、きみたちのものなんだから。」という彼なりの映画への愛に溢れていて、だとしたら、彼の撮る映画が少々スノッブだったとしても、それを見る私たちが俗物的なのだから、映画にちりばめられたスノビズムなんて私たちにとってはスパイスのようなものだ、とも思う。それに、誤解を恐れずに言うならば、彼自身かなりスノッブな人物のように見受けられるしね(笑)。

 私がアレンの映画で一番好きなのは、『インテリア』(78)。独立はしたが、それぞれに悩みを抱える三人姉妹に、インテリアデザイナーである妻のイブと、弁護士で夫のアーサー。夫は妻に突然別れ話を切り出し、それから少しずつ、静かに、崩壊していく家族の物語だ。涙とかそういう分かりやすい悲しみではなくて、骨身に沁み入るような、つきまとう影のような灰色の深い悲しみ。

 初めはアーサーの独白。イブという名前の表すものが象徴的だ。
「イブは常に遠く平静だった。娘3人の秩序ある生活。今思えばそれは冷たかった。イブが創った世界に私たちは住まわされていた。混乱を許さない調和の世界、巨大な威厳、さながら氷の宮殿だった。そしてある日突然気づいたんだ。互いの間の越えがたいふちに。赤の他人を見る気がしたよ。」

 ラスト、夫と彼の新しい恋人との結婚式の夜に、次女のジョーイがイブに語るシーン。
「皮肉ね。ママをこんなに思っているのに、ママは私を軽蔑してる。ママは完全すぎるのよ、この世に生きるには。美しく完成された部屋、すべてが統制されたインテリア。感情が入り込む余地は全くない、どこにも、私たちの誰にも。」
「私はママが憎い。ママは分からない?ママは病気なだけじゃない―それなら話は簡単。本当は、心が歪んでるの。冷たい悪意を、さりげない態度で…。病んだ心の核には、病んだ精神が…。でも愛してる。結局は許しあうしかないのね。」

 イブはこの話を聞いたあとに、まっすぐ夜の荒れた海に向かう。お葬式で、三人姉妹が窓の外の穏やかな海を見ながら、“It's very peaceful.”と言って、映画は終わる。

 夫や娘たちを、インテリアのように整然と、秩序を持って統率しようとしたイブ。
 そして娘たちも、母が大切な存在だからこそ、彼女に振り回され、自由になりたいともがいても、母を裏切れない、見捨てることが出来ないという思いがある。
 途中、ダイアン・キートン演じるレナータが、創作の途中に、窒息しそうな恐怖に襲われるシーンがある。これは、「どこにもいけない」もしくはジョーイが言うような「許しあうしかない」という哀しい現実が、首に縄を巻かれるような恐怖や絶望を起こさせたのかもしれない。だからこそ、最後の「平和ね」という台詞は、母から解放された穏やかな心情の吐露なのだろう。でも、窓から海を見つめる横顔には、ママから解放されたのにもかかわらず、結局は誰もママを救えなかった(あらゆる意味で)という喪失感や虚無感が、深い皺となって刻まれている。

 家族がこういう関係しか(つまり、首に縄を巻き付け合うような関係しか)築けないのだとしたら、家族には何の意味があるのだろう。どこまでも耐えたり、許し合うことしか出来ない。捨てることもできず身動きが取れない。そこから解放される一つの方法として、イブはこの映画で死を選んだが、それが唯一の解決方法になる前に、私たちは互いの首の縄を緩めなければならない。

Posted at 13:26 | Cinema | COM(2) | TB(0) |
2006.07.22

かっこ悪いことはかっこいいことだ

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 今日は大学のテストだったが、真剣に取っていた授業のノートをどこかに失くし、勉強できなかった。単位に羽が生えて飛んでいきました。パタパタパタ…。

 『僕らの音楽』のゲストが、くるりの岸田くんと松尾さんだったので見る。

 番組で『バラの花』と『東京』を歌っていたが、これがそれぞれ2001年、1998年の曲なことに驚いた。月日がたつのは早いものだ。
 村上春樹の小説では、過去について述べるときに、よくその年に流行った曲を挙げるけど、歳を取るにつれて本当にそんな風に一年一年を記憶していくことが、身に沁みてわかる。
 
 『東京』が初めてラジオから流れてきたときから、くるりの大ファンだ。とくに1998年は、スーパーカーや中村一義やナンバーガールが次々と出てきて、いわば黄金期だったが、今ではもうすっかり変わってしまった。
 2002年を皮切りに、一番音楽に夢中になれた時代(むろん自分にとってのだが)が徐々に終わっていくことを、ひしひしと感じた。もう、あんな風にむさぼるみたいには音楽を聴けない。細胞のひとつひとつにまでビートが刻まれていくような、そんな聴き方はもう出来ない。
 受験生のときは早く家を出たくて、『東京』をよく口ずさんでいたけど、上京してからは音楽が命綱ではなくなったことも、ある意味では皮肉なことだ。でも音楽が命綱の人生も、それはそれで問題なので、ここは便利な言葉「大人になった」ということで片付けさせてもらう。いずれにせよ、青臭いことをいうようだけど、一つの青春だったのだ。

 くるりの思い出についてのあれこれ。

 受験生のときに、カワといった夏フェスで、スーパーバタードッグ(懐かしい!もういない!)のライブを見た後、カキ氷を買うために出店に並びながら、「くるりの『青い空』がめちゃくちゃ好きだ!」と話していると、遠くからまさにその『青い空』が聴こえてきた。バッと顔を見合わせて、音のするほうにカキ氷を持って一目散にダッシュした。出所はDJブースで、踊る人たちを見ながら下手くそなダンス。するとDJに現れたのは岸田くんだった。その時の感動といったらもう。
 でも今から振り返ると、目の前に岸田くんがいたことよりも、偶然の音楽にカキ氷を持ってダッシュしたことや、全く同じ馬鹿デカイ大きさの感動を抱えているであろう友人が、隣にいてくれたことの方が奇跡的に思える。これを青春と呼ばずしてなんと呼ぼう?
  
 ある年ライブに行ったら、もっくんがいなかった衝撃。
 またある年のライブでは、私の位置からクリストファーしか見えなかったこと。彼の暴れっぷりに終始笑っていて、他のことはよく覚えていない。だけど、クリストファーの叩く『バラの花』は、もっくんの叩く『バラの花』よりも獰猛でダイナミックで、ちょっとだけもっくんの草食的なドラムが懐かしくなった。好きなものが変わっていくこと(ここではバンドのメンバー)に、慣れないなら終わるまでだ。あんなに何度もメンバーが変わっても、今でもくるりは変わらず好きだ。

 最後にくるりのライブに行ったのは、去年の11月。
 私は人生最大に落ち込んでいる時期で、くるりだろうがなんだろうが、とにかく「楽しむ」という感情を忘れてしまっていて、それに必要なパワーなど、ひとカケラも残っていないような状況だった。
 ライブもほとんどが上の空で、しかも以前ほど熱心にくるりの曲を聴かなくなっていたせいで、知らない曲ばかりだった。
 でも、ひとつだけ。『ハイウェイ』は覚えてる。
「とびだせジョニー 気にしないで 身ぐるみ全部はがされちゃいな 優しさも甘いキスも あとから全部ついてくる」
 落ち込んでいたのは、別に恋愛でどんづまりだったせいではないが、とびだせジョニー、風に吹かれて豆腐屋ジョニー(これウマイ)、とにかく行動を起こさなきゃ、当たってダメならそのとき考えよう、と自分に日々むりやりに言い聞かせていたことが重なって泣けてきた。頭ではわかっていても、とびだせないときもあるということを、体が知った時期だったからこそ、余計に沁みたのかもしれない。
 そして、またもそのとき一緒にいてくれたカワよ、音楽の思い出は常にカワとともに。

 最後に。
 松尾スズキも、高校の頃から大好きだ。フリッパーズギターが、「かっこいいということはとてもかっこ悪いものだ」、ということを確立したのと同様に、松尾さんが、「ダメ男であることはとてもかっこいいことだ」、ということを確立したように思える。ある意味では、フリッパーズ以後、「では何がかっこいいのか?」という命題に対して、新たな21世紀的かっこよさを提示したようにも思える(これは、ジョークですよ、念のため)。
 一見コキタナイ系、ダメ系がモテるようになったのは松尾氏のおかげか。その意味では、岸田くんもジョニー・デップも松尾氏の恩恵にあずかっているのか。
 とにかく、松尾さんのそのダメッぷりの加減はさすが元祖で、あくまでかっこよく、そしてどこまでもかっこよかった。

Posted at 02:57 | Music | COM(7) | TB(0) |
2006.07.02

読まれちゃ困る!書く女

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 「プレッシャーさえも力に変える」というのはよく聞くけれど、「ブーイングさえも力に変える」不屈の精神を持ったポルトガルが、イングランドに勝利。目の前で、あんなにイングランドサポーターからブーイングを受けながらも、PKを決めたのは流石だ。PKにまつわる「ヒーローが外すジンクス」は今回も健在。
 各局のアナウンサーが、口を揃えて、「輝きを取り戻したジダン」という言い方をするけれど、実際に試合やインタビューを見ると、本当にすごい笑顔でキラキラしていて、そんな彼をあとたった二試合しか見れないのかと思うと悲しい。
 今大会は、必要以上にTVでマラドーナ(テンション高!)を見かけたが、ジダンも彼のように、伝説の英雄として後世に語り継がれることになるんだろう。
 そんな一つの時代の終わりを見届けることができるのはとても嬉しく、ぜひとも有終の美を飾って欲しいと思うけれども、実際に試合を見ているとそんなセンチメンタルなちっぽけな思いはどこ吹く風。ドキドキしながら試合を見守り、魅惑的なプレーやゲーム展開に我を忘れてにエキサイトして、「ぐわー!」とか「ぎゃー!」とか叫んでいるうちに終わるものだ。でも、それこそが素晴らしいプレーヤーだと思う。

 大好きな永井愛さんの舞台のお知らせが届いたので、早速申し込むことにする。今回は作家、樋口一葉のオハナシ。また今回も、鋭く切り込み、よじれるほど笑わせながら、全く新しいものを見せてくれるのだろう。楽しみだ!

 『「さあ、書こう!」とパソコンの前に座ったとたん、つい始めてしまうのがブログ散策。いろんな人の日記を読むのが好きです。
 でも、自分のブログは欲しくない。この不精者が、あえて日記をつけるなら、読まれちゃ困ることをぜひ書きたいと思うからです。
 さて、日記における「読まれちゃ困る」こととは何か。樋口一葉の日記から、「読まれちゃ困る」ベスト3を選んでみました。
 まず、第三位は、「秘めたる思い」。小説の師、半井桃水への秘めた恋情は日記の刊行で明らかになり、センセーションを巻き起こしました。だけど、ぐっとこらえて第三位。読まれちゃ困るのは、一葉だけですから。
 第二位、「人の悪口」。一葉は辛辣!歌塾の先生も、女友達も、親しく交わった青年文士も、メタメタに論評しています。桃水だって、「あんなに好きだと書いときながら、ここまでけなしまくるのか」と腹が立ったことでしょう。被害者多数なので第二位。
 で、堂々の第一位は「人の言動の詳細な記録」。たとえば、あの雪の日、桃水が寝間着姿で一葉のためにお汁粉を作ったこと。「泊まってったら」と誘ったこと。「自分は別のところに泊まるから問題ない」と笑って付け加えたこと。こういうことを細かく記されてしまったのは、桃水にとって、恋の告白より、悪口より衝撃だったのではないでしょうか。客観描写に見えますものね。これを手がかりに、心の奥まで探られてしまいそう。
 どうも、日記における「読まれちゃ困る」の究極は、書いた当人の「困る」事実ではなく、書かれた他者の「困る」観察のような気がします。なので、これが第一位。
 一葉の日記は、真情の吐露から、次第に人間観察へと比重を移したといわれています。それに連れて小説家としての名声は高まりました。今回の芝居はそこに注目、「書く女」一葉の自立に、読まれちゃ困る日記から、熱く迫ろうとするものです。』
~「書く女」のパンフレットより 文・永井愛 世田谷パブリックシアター提携

 前説だけでも面白そうだ!私もノートに日記をつけているが、真情の吐露どころか事実の列挙というオソマツさ、人間観察や言動の詳細な記録なんてもってのほかだ。
 それでなくとも一葉は大好きな作家だ。一葉のイメージは、か弱い才女で繊細薄命苦労人…まるで聖人じゃないの!もっと、髪をかきむしっちゃう姿や、利用してやるという聞き耳根性やしたたかさを見たいな~と思うけれど、永井さんの芝居は常に想像を超えていくものなので、こんなチンケな突破などもとから掲げていないのでしょう。あぁ、楽しみ!!
 主演は寺島しのぶさん、筒井道隆さんです。詳細は二兎社。http://www.nitosha.net/index.htm

Posted at 17:58 | Arts | COM(2) | TB(0) |
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