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2006.10.29

いちょう並木のセレナーデ

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 昨日の『僕らの音楽』で、リリーさんと安ちゃんとハナレグミの永積くんが、小沢健二の『いちょう並木のセレナーデ』をセッションしていて、テレビの前で硬直した。もちろん嬉しくて硬直したのですよ。永積くんが小沢くんの歌を歌ってくれるなんて、失われたオザケンファンには至上の喜びなのではないでしょうか。

 とにかく『LIFE』が音楽の全てみたいになっていた時期があった。全部が新鮮で、今まで聴いたことがなくて、歌もギターも下手くそで、でも曲と歌詞はめちゃくちゃによかった。岡崎京子とかよしもとばななとか柴田元幸とかアキ・カウリスマキとか、あらゆるサブカルや時代の波が小沢くんとともに入ってきて、私はそれにも夢中になった。今でも、あの頃好きになったものたちから、あらゆる矢印が伸びるように、偏愛マップは広がりつつある。祝福された1994年よ!

 私の通っていた中学校が取り壊されることになったとき、夏休みでたまたま帰省していた私は、散歩がてら、中学校を見納めに行った。もうすでに工事中だったので中には入れなくて、フェンスの外からはグラウンドとプレハブと体育館しか見えなかった。私はウォークマンで『LIFE』を聴きながら、中学校の周りを一周して、懐かしき道場を、壁にはりつきながら覗いて、工事のおっちゃんに怪しまれたりしていた。
 特になんの感慨も情緒もなく、さて帰ろうかな~と思っていると、ウォークマンから『ラブリー』が流れてきて、いきなりものすごいノスタルジーが襲ってきた。何度も「Life is comin' back」と繰り返し流れてくるのに、それに抗う風景が目の前に広がっていて、なんだか切なくなってしまった。
 つまらない中学だったけど、歌の歌詞とは裏腹に、もう絶対に戻れないし、思い出そうとしても、この校舎が新しくなったら、もう通っていた頃の校舎なんて思い出せなくなるだろうなと、痛いくらい思った。そして、事実そうなった。

 変わっていく流れは止められないし、止めようとしても淀むだけだ。でも、自由に「Life is comin' back」と口ずさむことはできる。そうやって自分の中で取り戻すしかないのだ。モノとしてではなく、思い出として。

 そして、昨日の『タモリ倶楽部』で、なんだか知らんが、安斎肇とタモリさんが、小沢くんの歌詞を絶賛していた。タ、タイムリー…でもないか。

 ところで『愛し愛されて生きるのさ』は、初めて聴いた時から私には大学生のイメージそのものだったのだけれど、こんなすてきな言い訳とか電話とかは全然ない。10年前は、『愛しのエリー』じゃなくて、この曲を聴いていた。
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Posted at 01:28 | Music | COM(2) | TB(0) |
2006.10.25

魔術師に喰われた日

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 日曜日、ダリの回顧展に行ってきた。バイトの合間をぬって一人で行ったものの、カップルと親子連れの嵐のなかで、孤独をかみ締めるアヤココ。

 ダリの『サン・ファン・デ・ラ・クルスのキリスト』を初めて見たときの衝撃は忘れない。よくある、キリストが十字架に磔にされているシーンの絵なのだが、キリストを仰ぎ見るアングルで描かれる事が多い他の宗教画と違って、キリストを上から見下ろすアングルで描かれているのだ。ダリは、あのヒトラーやフランコ、独裁やファシズム、ブルジョワ主義を支持した人物である。スペイン人とはいえ、およそ敬虔なカトリック信者だったとは思えないし、そんなダリが普通の宗教画を描くとも思えない。
 ダリはシュルレアリストだったが、私にはシュルレアリスムが何なのかはよく分からない。もっと言えば、よく分からない絵がシュルレアリスムだった。しかし、この絵を見て少しだけ分かったような気がした。キリスト、すなわち神を上から見下ろすということ自体がシュルレアリスム(超現実)なのではないか。現実の次元では、私たちは他の宗教画で描かれるとおり、神を見上げる存在である。ダリは、それを一枚の絵によって易々と飛び越えたのだ。すごいのはヒゲだけじゃない。
 ちなみにこの絵は、1961年に展示されたときに、錯乱者によってズタズタに切り刻まれたというスキャンダラスな絵でもある。

 そんなわけで私のお目当ては『サン・ファン・デ・ラ・クルスのキリスト』だったのだが、おポンチなことに、今回の回顧展には来ていなかった。ガーン。でもそれはともかくとして、たくさんの奇抜で精緻で、やたらと陰影のある絵は素晴らしく、まるで不思議の世界だった。
 
 『夜のメクラグモ…希望!』では、人を蝕むアリが戦時下のヨーロッパを、溶け出したチェロが文化の無力さを表しているが、大砲の中から出てくる美しい馬や、チェロを弾いているのが女性ということが、希望の訪れを予感させる。
 『焼いたベーコンのある自画像』で登場する松葉杖は、ダリの最も重要なモチーフのひとつだ。「女性の胸を想像しながら松葉杖でメロンをつついた」と自伝にあるように、子供時代のエロティックな空想には松葉杖が登場しており、絵の中で「柔らかな物体」を支える松葉杖は、ダリ自身の不安と不能を支えているといわれている。
 『世界教会会議』はとても大きな絵で、ローマ皇帝コンスタンティヌスが、信仰心の厚い母親へレナの十字架の力によって戦争に勝利したという物語から、インスピレーションを得て描いたものである。ダリは自分自身に成功と名声をもたらした妻ガラを聖女へレナに模して、教皇の戴冠式を描いた。この絵の左下には、絵を描くダリと、彼のほうに舞い降りてくるガラがいる。少し演出が効き過ぎていて、その精緻なタッチとは裏腹に、私には滑稽に思えた作品だった。

 相変わらずシュルレアリスムが何なのかは分からないし、ダリの人を喰ったような自己演出に少々辟易したが、それでもそのたくさんの奇抜な絵は、「とりあえず思ったように描いてみればいいんじゃん!」という、絵に対する遊び心や純真さが根本にあるような気がしてならなかった。海や女性や物理学など、色んなものからインスピレーションを得て、それを一番適切に表現したら結果こんなものになった、という感じだった。

 最後にダリの言葉を。
「私の絵を理解してもらおうだって?描き手である私でさえ理解できないのに?だが、理解不能だからその絵に確たる意味がない、ということにはならない。逆にだからこそ、意識では一般に捉えられない体系的で一貫した、複雑かつ深く激しい意味を表しうるのである。」
 ダリが探し求めていたのは何だったのか、ダリ自身にも分からなかったそれは何だったのか。絵は作者が死んだ後も、声高に見る者に問いかけてくる。

Posted at 20:14 | Arts | COM(2) | TB(0) |
2006.10.18

一葉のツラノカワ

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 「さて、次は何を書こう…。」
 先週の日曜日、二兎社の舞台『書く女』を観に行った。樋口一葉の一生を描いた舞台なのだが、寺島しのぶが素晴らしかった。圧巻のラストには、鳥肌が立った。

 斉藤緑雨が樋口一葉の家を訪れて、彼女の作品について意見を述べるシーンが印象的だった。
 斉藤は、樋口一葉は小説を通して、世の女たちに恐ろしい入れ知恵していると言う。とはいっても、斉藤は評論家であり、晩年の一葉にとってはよき理解者の一人であったそうだから、「恐ろしい入れ知恵」といっても、何も一葉を批判しているのではなく、むしろ彼女に対する賛辞ととれよう。世間に入れ知恵をできる小説家、つまり、何らかの影響を文学によって与えることのできる小説家は、いつの時代であっても変わらず評価されるものだ。

 樋口一葉は、『裏紫』で、夫がいる身でありながら浮気をしにいく女を書いたが、途中で連載を休止した。そして『ゆく雲』で、浮気がばれて夫に離縁される女を書いた。しかし、この『ゆく雲』で実際に追い出されたのは誰なのか?当時の常識通り、男が女を追い出したのか?
 女は男に「追い出したいなら追い出して構わない」と啖呵を切り、男がそれに「もう会わぬ」と答え障子を閉めた。ということは、どちらがどちらを「追い出した」のか?一葉は一言も「男が女を追い出した」とは書いていないし、直接的な表現も書いていない。

 それに注目して緑雨は、一葉にこう言う。
 「あれは、女が男を追い出したのではないのか?あなたは世の女たちにこう言いたいんでしょう。男とは違うやり方で、でも男と同じことをせよ、と。あなたは『裏紫』で浮気をしに行く女を書いたが、それでは露骨過ぎると思ったんでしょう?もっと巧妙に、あからさまではないやり方でやらなければ、と。」

 一葉は一時期、吉原の近くで荒物屋を営んでいたことがあるが、そこで毎日吉原に足繁く通う紳士たちを見ていた。それは、男女同権が叫ばれるずっとずっと前の時代。そのころすでに一葉は、悲しい恋物語を隠れ蓑に、小説で女の権利を主張していたのだ。初期の一葉の小説の中の女は、世間のしがらみに縛られ、結ばれない恋に一人めそめそと泣くお嬢様だった。しかし、だんだんと女は行動を起こすようになってくる。啖呵もきるし、浮気もするし、裏切った男のことを別の男を利用して毒殺しようとまでする。あの時代に、だ。

 当時、一葉の小説を読む読者は、こんな悲しい話だから、きっと作者は泣きながら書いているに違いないと思っていたそうだが、緑雨が評するところ、一葉はきっと笑いながら書いていたのではないか。結ばれない恋や一途な恋、世間を気にする紳士やお嬢様、浮気な男に泣く女、それがスタンダードだった時代そのもの。そんなもろもろのことに冷たい笑いをたたえて、小説の中の女に強い意思を注入していった。女が男と同じことをしてなぜ悪い、強い女、諦めない女、自立した女、生きる女。
 
 薄命薄幸の一葉だが、彼女はちっとも「薄」なんかじゃなかった。彼女自身が、めそめそ泣く女から冷笑をたたえた強い女になっていくにつれて、小説の中の女も成長していく。舞台の一葉は、そんな根性と気概のある、強くしなやかな女性だった。

 そして、一葉をたぶらかす(?)桃水を演じた筒井道隆は、そのまんま筒井くんで、ハマリ役だった。そりゃ筒井くんみたいなナチュラルな人に、あんなにナチュラルに好意を寄せられたら、コロッといっちゃうよなぁ…と思ってしまった。たぶん舞台を見ていた女性陣はみんな、一瞬でも筒井くんに胸キュン状態になったと思う。だまされちゃだめよ、と思いつつハマっていくそんなドツボな感じ、わかっていただけますでしょうか。


Posted at 23:34 | Arts | COM(7) | TB(0) |
2006.10.14

フジ子・ヘミングの音色

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 バイトを辞めることを友達に話すと、みんな口々に「良かったね!!」と言ってくれて、すごく嬉しかった。どうもありがとう。そして最近ナツがよく泊まりに来てくれて嬉しい。そんな恐縮しなくていいからね、ナッツ。ビール持参ならそれでいいから(ウソよ、笑)。

 フジ子・ヘミングのソロ・リサイタルに行ってきた。チケットはもらったものだったので、正直彼女の演奏をきちんと聴いたことはなかったけれど、ピアノは大好きだし、彼女のドキュメンタリーも見たことがあったので、それなりに楽しみにしていた。

 でも、彼女がピアノの前に座り、演奏が始まってたった一音で、その音のあまりの美しさに泣いてしまった。何度も聴いたことのあるショパンのノクターン。ナマオトだからとかをはるかに越えた感情の波がどっと押し寄せてきて、途切れることのない音の洪水がひとつひとつ丁寧に心をさらっていくようだった。
 舞台は大きくて広く、天井はとても高い。そこにポツンとおかれた一台のピアノと、小さな彼女。でもピアノを弾いているときの彼女は、その大きな空間を完全に支配していて、奏でる音は宇宙の果てにまで届きそうなほど響きわたり、一音一音がまるで手でつかめそうなほどだった。音が見えて、その音には、ぎゅっと圧縮された彼女の人生そのものが刻み込まれているようだった。演奏を始める前に、必ずピアノの前で頭を垂れて目をつぶる小さな彼女の全身から、すでに音楽があふれ出していた。
 切なさと情熱を秘めたショパンのエチュード。迫力のラ・カンパネラ。決して途切れない、流れるようなピアノ。

 最後、アンコールで弾いたリストの愛の夢と、モーツァルトのトルコ行進曲。この二曲がまたとても素晴らしく、愛の夢のあとに聴くトルコ行進曲は、そしてフジ子・ヘミングが弾くトルコ行進曲は、戦争の曲では決してなかった。人生の失望や苦難、焦りと空回りから始まり、サビで一気に、愛や人生の素晴らしさが七色に輝き出す。それがまるで彼女からの人生の讃歌のような気がして、音があまりに響くので、涙が止まらなくなった。
 
 大拍手の中、フジ子さんはピアノに寄りかかって小さくお辞儀をし、舞台を後にした。そしてそんな感動の嵐の中、非情にも「今日のプログラムはこれで終了です。」というアナウンスが入り、みんなぞろぞろと立ち上がっていくので、一人のんびりと浸ってるわけにもいかず、人の波の中へ飲み込まれていった。なんかさー、もうちょっとさー、浸らせてよ~…。いきなり夢から現実に引き戻された感じなんですけど~…。

 でも最近、何をしてても感動するということがなく、例えば音楽とか映画とか旅行とか恋とか、楽しみにしていたものが目の前にあるのに、別にそれほど心動かされるわけでもなく、ただ茫漠と過ぎていくだけだった。だから昨日は、いきなり最初から感動している自分に驚いたと同時に、まだちゃんと感動できる自分が嬉しかった。「そうだそうだ、こういうこみ上げてくる感じだ!」とちゃんと思い出した。感動レベルが高くなっているとかそういう高級な話ではなく、単に自分が鈍感になっていただけだと思う。どんなことにでも、フジ子さんの弾くたった一音の中に詰め込まれた輝きのようなものを見出せれば…。また讃歌なるものが目の前に開けるかもしれない。

Posted at 22:23 | Music | COM(2) | TB(0) |
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